[裏木曽の紹介]
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3.裏木曽の道

3−1 古代

大化の改新の後、大宝律令によって定められた郡里制が、霊亀元年(七一五)郡郷制に改められた。美濃国恵那郡絵下(えなのしも)郷の名が初見されるのは、天平勝宝ニ年(七五〇)「美濃国司解」である。
解文の内容は「名を古都売(ことめ)、年齢は20歳で右の頬に黒子がある。絵下郷の戸主県主人足の家人県主息守に所有された奴隷」というもので、これは東大寺大仏が完成したので、ときの孝謙天皇は東大寺に封4,000戸、奴婢それぞれ100人をほどこすことにした。
美濃国へは奴婢それぞれ3人ずつを正租で買い求めて送るよう命じた。
美濃国守は奴婢6人を正税の稲4,900束で買い求め、解状を添えて貢上した。この婢3人の内の一人が上記の者であるというものである。

この絵下郷は現在の裏木曽地域に相当し、当時から既にこの地域が存在したことのあかしである。
恵那郡には六郷(絵上、絵下、坂本、安岐、竹折、淡気)があり、木曽谷は恵那郡絵上(えなのかみ)郷と呼ばれた。
美濃と信濃の境界は鉢盛山を中心とする鳥居峠や境峠に連続した中央分水嶺であった。
のち平安末期、土地私有化の流れの中で荘園化が進み、恵那郡の内、絵上郷をのぞく五郷は遠山荘に、絵上郷は木曽福島以南が小木曽荘、以北は大吉蘇荘となる。

古都売がどこから、どのような経路を途って、美濃国府に赴いたかはさだかでない。



木曽西古道

当時木曽川南岸には都から地方の国府を結ぶ幹線(七道)の一つである東山道が整備され、恵那郡坂本郷には坂本駅(現中津川市駒場)、竹折郷に大井駅が有った。
美濃国府に赴くにはさらに、土岐、可児、各務、方県、・・・・不破、美濃国府駅(赤坂町)へと続く道である。

一方木曽川北岸の絵下郷(裏木曽地域)には木曽西古道が有ったという伝承がある。
御殿(三留野)で木曽川を渡り田立、坂下、福岡、高山、蛭川、中ノ方、・・・・黒瀬、・・方県・・・不破、美濃国府へと続く道である。
裏木曽地域内の道筋については諸説あるが、有力な伝承を大要すれば、坂下から外洞(そでぼら)を上ってあけの鳥屋峠付近を通り、獺(たつ)の沢に沿って下り植苗木(うわなぎ)に出る。
植苗木からいせ坂を下り、松島川を渡って小池、関戸を経て、ひらい場で付知川を渡り広瀬観音堂あたりに至ったようである。.

古代の道は山腹上部を通過していたようである。当時の通行人にとって高い場所の歩行が目標物を正確に求めるのに適しているからであると考えられている。 私の菜園は松島川を渡った小池地区の高台にあり、このあたりを古道が通っていたのかもしれない。

さて、古都売の仕えていた県主息守は県主の性が与えられるほどの豪族であった。その在所は坂下あたりで有ったと考えられるのである。裏木曽地域の古墳分布が、坂下は外洞、椛の湖に八基の古墳を持つが、その他の地域は無古墳であるからである。

古都売はこの木曽西古道を外洞から植苗木、小池、そしてひらい場で貫頭衣の裾を濡らしながら付知川を渡って、さらに美濃国府へと不安を抱きながら歩いていったのであろう。

この木曽西古道は古代より中世、近世へと引き継がれてゆく道の一つである。



3 福岡町史
坂下に向かう峠道には次の緒道が伝えられ確定しがたいが、なかでも獺の沢に沿った山道が最も有力視される古代の道であろう
@植苗木より獺の沢に沿ってあけの鳥屋峠付近を通って坂下外洞に至る山道
A小池より松島川上流に沿って鎮野(ちんの)峠を越え坂下外洞に至る山道。
B植苗木より田代良雪山を経て、笹原くぐり木鳥屋を通って坂下外洞に至 る道




4 坂下小史
田立から坂下、外洞を経て、福岡植苗木に至る木曽西古道は、猿鼻、上鐘、稲荷堂、砂場、島で川上川を渡り、赤田、長坂、檜、黒沢を経て石掛、二本木、田尻、二股、あけの鳥屋付近を通り、獺の沢に沿って下る道としている。



                                                           5 坂下町文化財分布図
古墳分布図によれば、分布は外洞地区(川上川の南西側で外洞川との間に挟まれた台地)、及び椛の湖(古墳群)
古墳形式は横穴式円墳、推定年代は6世紀後葉から7世紀前葉 






飛騨への道


 史実としては疑問であるが、日本武尊が東征の帰り、信濃国へ入り科野坂(御坂峠)を越えて美濃国に入り坂本の地に来た。一方、吉備武彦が越後から越中の国を偵察し、飛騨路をへて、恵奈郡に入り付知川谷を下って木曽川を渡り、坂本の地で日本武尊と会ったと「濃飛両国通史」は述べている。
当時既に踏み分け道から発展した飛騨から信濃(恵那)への道が有ったと考えられる。

このルートで重要な位置を占めているのが中津川市神坂から下呂市萩原まで南東方向に一直線に続く阿寺断層である。
此の活動のずれによって裏木曽地区の河川は断層に沿って流れる流域があるが、飛騨地区でも同様で益田川(飛騨川)、竹原川がある。

飛騨から信濃(恵那)に行くには、萩原から下呂を経て帯雲橋までは益田川(飛騨川)を下り、帯雲橋から舞台峠までは竹原川を上る。
舞台峠から塞の神峠までは加子母川を下り、塞の神峠から田瀬までは付知川を下る。
この間は阿寺断層に沿って共に南東に向いている。
田瀬からは川づたいに下れば木曽川に達する。
難所は舞台峠(693m)と塞の神峠(638m)であるが、いずれの峠を越えるときも、南東方向に恵那山が見え重要な目標物だったであろう。

時代は下って東山道の開設と同じ頃、美濃国府から飛騨国府に向かう飛騨路(官道)が出来ていたようである。方県(岐阜)で東山道と分かれて武儀、加茂、下留、上留、石浦の駅を経て飛騨国府に至る道である。
 この飛騨路の下留(下呂)駅から初矢峠(720m)を越え、宮地に至り、飛騨路と分かれ、加子母、付知、福岡を通って、東山道の坂本駅と結ばれる間道が有ったのはごく自然のことである。
この道が発展し、史実に上るようになるのは、中世、近世になってからである。


なお、当時の道は主要な幹線道をのぞき、行き先で呼称していたと思われるから、信濃や恵那地方の人々は飛騨への道。飛騨地方の人々は信濃(恵那)への道と呼んでいたと思われる。

坂下の長坂近くの蕎麦畑から望む恵那山と神坂峠(恵那山の左裾野の一段と低い所)。
神坂峠(標高1595m)は東山道最大の難所であった。
「万葉集」巻二〇の防人の歌が有名である。
「ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎う命は母父がため」
主張埴科郡神人部下忍男

ここの蕎麦畑は単一面積では県下一といわれており、花の見頃は9月20日、蕎麦は道の駅「きりら坂下」で食べられる。
坂下から川上川を渡りつづらに登った赤田から眺めた坂下地区。古道はほぼ真っ直ぐ田立に向かっていた。
長坂近くの蕎麦畑から望む高峯山と鎮野峠(右裾の最も低い所)。峠の右の少し低いところがあけの鳥屋。
長坂から外洞に向かう途中の黒沢から眺めた外洞地区、鎮野峠とあけの鳥屋。ここからは外洞川の支流に沿って下る。
上外の田尻から鎮野峠、あけの鳥屋を望む。外洞川はここで二股に分かれており、この洞をもう一つの支流に沿って上る。
あけの鳥屋を越え、松島川の支流獺の沢から眺めた植苗木。広々した台地が広がる。正面の山は二ツ森山。
ひらい場付近の付知川、川向こうは高山。
舞台峠を越え小郷に向かう途中で眺めた恵那山。
塞の神峠を越えたあたりから眺めた恵那山。
植苗木から小池方面を望む。このあたりで木曽西古道と飛騨への道(信濃への道)が合流。
関戸川を渡り並松地区から苗木津戸方面を眺める。木曽西古道は右折れし、飛騨への道は直進し苗木津戸から西山の津戸へ木曽川を渡った。