[裏木曽の紹介]
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3.裏木曽の道
3−2 中世
遠山荘は平安末期には成立していたらしいが、起源などはさだかではない。その領域は現在の中津川市、恵那市の全域と瑞浪市の一部(大湫)に及ぶ広大なものであった。
遠山荘の初見は、「吾妻鏡」の文治元年(1185)五月の条で、「木曽義仲の妹菊姫に、遠山荘内の一村を与える」というものである。*1
この遠山荘の一村がどこかについては諸説あるが、はっきりしていない。有力な地は馬籠で、信濃に近く、義仲との関わりの深いこと。義仲追善のため建立されたと伝えられる法明寺跡があり、菊姫は晩年この寺の傍らに庵室を構えて住み、生涯を終えたと伝えられている。
ここには鎌倉期と推定される五輪塔が残っている。
裏木曽にも伝説がある。その地は加子母小郷(おご)で、頼朝にまつわる伝説も多い。隣接する下呂市御厩野(みまやの)に或る大威徳寺跡には数基の五輪の塔がある。
大威徳寺は確実な記録もなく、伝説的なことが多いが、本堂、講堂をはじめ一二の建物があったと言われ、その礎石や五輪塔数基の存在で裏付けられる。
恵那郡史では「加子母の小郷地蔵、大威徳寺関係遺跡など、いずれも当時代における創建又は改修のもので、直接間接に頼朝の敬神宗仏の影響を物語るものということができるであろう。」と述べ、岐阜県史は「この時代には、天台・真言両系統の人たちの一部がこの地方における山嶽信仰の中心地に集まって、地方的に特殊な信仰形態を持った集団を作り出している。」と述べており、大威徳寺は鎌倉時代には創建されていたと思われる。
当時、美濃と飛騨の境である舞台峠近くに壮大な寺院が存在した。
このことは寺領としての村落はもとより、近隣にはすでに多くの村落が形成され、参詣、物資の輸送などのため、道路の発展が見られたことであろう。
しかしながら、中世における裏木曽の道筋や、宿駅は、はっきりしていない。以下に道に関わる裏木曽の主な動きを挙げる。(福岡町史参考)
○建久七年(1196) : 加藤景兼、遠山荘を受ける。
○承久一年(1219) : 加藤景朝、岩村飯場間に拠り、遠山性をとなえ
る。
○元弘三年(1333) : この頃、福岡遠山氏広恵寺城に拠る。
○正平五年(1350) : 植苗木広恵寺開基
○永世一年(1504) : 飛騨の三木重頼の軍勢三百余名、加子母村よ
り、白巣峠を越えて王滝に攻め入る。裏木曽の
兵木曽に援兵す。
○天文一年(1532) : 遠山直兼、広恵寺城より苗木城に移る。
○永禄八年(1565) : 信長、苗木城主遠山直兼娘を養女とし、武田
勝頼に娶らす。
○元亀三年(1572) : 威徳寺合戦。遠山直兼、飛騨萩原城主三木次
郎右衛門と竹原御厩野で戦い勝利をあげる。
残党がなお退散しないため、威徳寺に火を放
つ。
○天正十一年(1583): 森長可苗木城攻略。遠山友忠、友政父子浜松
の家康の元に走る。東濃地方森長可の支配下
に入る。
○慶弔五年(1600) : 関ヶ原役起こる。遠山友政、苗木城を奪還し、
旧領回復す。
*1 義仲には菊姫という妹がいた。東濃の或る村に住んでいたが、頼朝の妻政子は菊姫を哀れみ、養い子とすることにした。文治元年(1185)の春菊姫は上洛するが、その権威をかり、彼女を取り巻く悪党どもが無効になった古い文書を使って、不知行の所々を寄付したり、また使者と称して荘園・公領の年貢などを横取りした。
幕府は菊姫を「物狂女房」として、こうした姫を取り巻く人々を処罰し、菊姫を鎌倉に召し寄せた。
五月に彼女は鎌倉に着き、自分の名が使われ、土地や年貢が悪だくみによって横領されていたなどということは、まったく知らなかったと謝った。
政子はこれに同情してとりなし、頼朝もあわれんで、美濃国遠山荘内の一村を与え、義仲の恩顧を受けた信濃国御家人小諸太郎光兼らにこれを扶持するよう命じた。
木曽西古道
遠山氏の一族の福岡遠山氏が西古道筋に当たる植苗木に根をおろし、木曽、飛騨方面に備えて守りを固めた。城が根山頂に城を構え広恵寺(こえじ)城と称した。
この福岡遠山氏の進出時期や系譜について福岡町史は「高森根元記によれば、元弘・建武(1331〜35)のころ、遠山一雲入道景利とその長男加藤左衛門尉景長父子が福岡に住んだことを記しており、この南北朝より室町時代にかけての、変転著しい世相の中で、この地に進出したものと考えられよう」と述べ、さらに「福岡城主、遠山加藤五郎は建武二年(1335)新田義貞の足利尊氏征討に従軍したと太平記に記されている。・・・当地方に親王伝説が伝わるのも、広恵寺城を中心とする遠山一族が宮方であったことを意味するものとも推察できよう。」と述べている。
この親王伝説は後醍醐天皇の王子とその子孫が、少ない従士と共に、山間を逃れる悲運な敗北者としての内容を伝えたもので、木曽西古道筋の村々に伝えられている。
こうしたことからも、古代からあったとされる木曽西古道は、この時代にも引き継がれたものと推察される。
江戸時代末期の木曽三留野の神官 原 旧冨はその著書「美濃御坂越記」に木曽西古道の道筋を赤坂・・岐阜・・関・・細目・・福地・中ノ方・蛭川・高山・福岡・坂下・田立・船渡(御殿内)・御殿と記している。
この道筋を裏付けるものとして「厳助信州下向日記」がある。
この紀行文は、山城(京都)醍醐理性院の厳助が、天文二年(1533)信濃国伊那の文永寺に下向した折、木曽川の西古道を伊那へ向かった紀行文である。
回記録によると道順は、細目(八百津)・蛭川・向田瀬(福岡)・西方寺(坂下)・妻子(妻籠)・広瀬(蘭)から清内路を通り飯田に至っている。
しかし
順路の中で、蛭川を発ち向田瀬着。翌々日向田瀬を立ち、二里で西方寺に至るとして、古代から伝承されている裏木曽内の道筋と異なっている。
古代のそれは、蛭川から高山へ出て、付知川を渡って並松・植苗木から山越えして外洞、長坂をへて坂下に至る順路である。
これに対し厳助は、蛭川から上流の向田瀬まで、わざわざ遠回りしている。
理由として、連日の雨で付知川が増水し川を渡れず、上流の向田瀬に出て、対岸の田瀬に渡り、田瀬坂を登り、上野、長坂をへて西方寺に至ったものであろう。
田瀬より下流は渓谷で川幅が狭いが、田瀬は阿寺断層の破砕帯であり、川幅も広く浅瀬で渡河が容易であったと思われる。
ところで蛭川から向田瀬への道順は、里数も回記録にないのではっきりしないが、二ツ森山の切越峠を越えたものと推測される。
回記録によると天文十五年五月
・十一日晴多雨 ホソメを立ち道八里ヒル川に至る......
・十二日大雨 大雨により滞留......
・十三日雨 ヒル川を立ち道□□ムカウダ瀬に着......
・十四日雨 雨により滞留......
・十五日雨 向田瀬を立ち道二里西方寺に至る......
時代は下って、金山城主森長可(森欄丸の兄)が苗木城攻略の際、西古道を進軍している。
天正十年(1582)八月の出陣では、中野方から高山村まで来たが、折からの付知川の増水と苗木勢の抵抗に遭い高山から引き返している。
翌天正十一年(1583)五月八日、森長可は軍を二手に分け、本隊は先陣各務兵庫を大将に兵千二百、後続は長可従士三百余人、後陣三百余人で東山道を大井宿を経て、中津川宿に着陣。
一方搦め手軍の大將は森可政、兵千五百は蛭川から高山千原川(付知川)に五月九日着陣。五月十一日搦め手軍は川を渡って攻撃、苗木軍はよく戦ったが十三日退く。
この戦を並松原の合戦と呼んでいる。
この戦に搦め手軍は大砲を擁しており、そのことからもこの時代には西古道は相当整備されていたものと推測される。
のち、この道は苗木遠山藩の藩政にとって重要な役割を担うことになる。
飛騨への道(鎌倉街道)
鎌倉時代には「いざ鎌倉」という緊急用の、地方から鎌倉に至る道路網が開かれ整備された。
当時の東山道は坂本・中津川・落合・湯船沢を通り神坂峠を越えて信濃に通じ、伊那谷を経て諏訪に至り、山梨県の富士山麓北側を通り鎌倉に至ったもので、この神坂越えを鎌倉街道といった。*2
飛騨国府からの鎌倉街道は野麦峠越えが最短距離であるが、一方飛騨路(東山道支路)の下留(下呂)から初矢(はちや)峠を越え、宮地に至り、ここで飛騨路と分かれ御厩野、舞台峠へと向かう道筋を土地の人々は鎌倉街道と呼んでいた。
七堂伽藍を構えた壮大な「大威徳寺跡」はこの道筋にある。
一方飛騨路は宮地から竹原峠(又は夏焼峠)を越え夏焼を経て、加茂へ向かう。
裏木曽にも鎌倉街道と呼ばれる古道がある。この道筋は苗木津戸地区にあり、大久郷諏訪神社を経て南宮神社前を通り、餘碌(よろく)谷を下って木曽川を渡り、対岸の西山の津戸に至る道筋である。
東山道と飛騨路を結ぶ間道の両端に、鎌倉街道と呼ばれる道筋が存在したということは、当然ながらその両端を結ぶ道筋も、鎌倉街道としての役目を担っていた。
飛騨から鎌倉に行くため、冬季に野麦峠を越えるのは困難であったであろうから、この道筋が鎌倉街道として存在したと思われる。
時代は下って
福岡遠山氏が元弘三年(1333)頃植苗木に進出して木曽、飛騨方面の抑えとして広恵寺城を築城したこと、
さらに永世一年(1504)7月、裏木曽の戦いに東美濃の豪士は、飛騨への道を経て裏木曽(付知、加子母、川上)の戍兵を率い白巣峠を越えていること、
さらには、元亀三年(1572)苗木城主遠山直兼が竹原御厩野の威徳寺合戦に精兵を引き連れてこの道を進軍していることなどから、この道筋は中世後半には相当整備されたものと推測される。
しかしながら、裏木曽内の飛騨への道筋を実証するだけの手がかりはない。
福岡地内について福岡町史は「苗木より発した古道は福岡に入り関戸、小池地内の小池井戸あたりを通過し、さらに広恵寺山麓を通り抜け、小石塚を経て下野田代川の下流不動滝(そでかけの松)を進んで宮脇(田瀬)あたりを通過し、付知方面へ向かったものと推測できよう。
この道筋には古くからの伝承として多くの古跡が残っており、少なくとも近世期の人々が通行した道路より、さらに古いことが想像できる。」と述べている。
付知・加子母地内について近世期の道筋から推測すれば、宮脇(みやき)より付知川の上流に向かって右岸を進み、横川を渡ると付知である。さらに川沿いに進み、稲荷橋手前付近で付知川を渡り、付知川左岸を上流に向かって北上する。
現在の付知の町中を野尻・広野林・辻屋のお堂当たりを通り倉屋を経て北上し、塞の神峠を越えたとものとおもわれる。
峠を越え加子母地区にに入った道は高時山の山麓を万賀・桑原・中切と進む。中切では木曽越古道と丁字路となる。
飛騨への道は唐沢山の山麓を番田に向かって直進し加子母川を渡る。
このあたりから平坦で高原風の台地が続く。
道は小和知地区を経て小郷の地蔵尊当たりを通り舞台峠に至ったのであろう。
峠近くには大威徳寺の多聞坊があったであろうし、右手鳳慈尾山には本堂が聳えていたことであろう。
関ヶ原役後、裏木曽の諸村は苗木・福岡(下野は天領)・坂下が苗木藩の所領に、川上・付知・加子母は尾張藩の所領となり、この道筋を中心に多くの支路が開けていった。
*2 原 旧冨の「美濃御坂越記」によると、室町末期の天正二年(1574)木曽義昌が武田勝頼の加勢として東美濃を攻略したとき、馬籠峠を補修して人馬が通れるようにしたために、それから木曽を通るものが多く、寛永(1624〜1644)の頃までは、少しは神坂越えをする者もあったが、その後はほとんど廃道化したとしている。
木曽への道
裏木曽と木曽を結ぶ道が古くからあった。
この道は飛騨と木曽を結ぶ道でもあった。
加子母から木曽越峠を越え、さらに渡合を経て白巣峠を越え、滝越・王滝から木曽福島に至る道である。
木曽越峠は唐塩山と高時山の谷間にあり、加子母中切地区と渡合を結ぶ峠である。
今は渡合まで付知町から道路が通っているが、当時としてはこの木曽越峠を越えなくては、行くことは困難だったようである。
この道が史実に登るのは裏木曽の戦いである。
永世一年(1504)七月10日、三木左衛門尉重頼は木曽谷の木曽義元を攻撃するため、三百余騎を率い白巣峠越しに王滝村へ進入した。
木曽義元はこの状況を聞き、翌十一日救援の兵を送って防戦したが、飛騨勢の攻勢は激しく木曽氏は多くの兵を失った。
同月十三日ついに王滝城は落ちたが、この日福島の兵三百余騎が黒沢から侵攻して飛騨勢に打撃を与えて、王滝城を奪還し、三木氏は後退を余儀なくされた。
飛騨勢は滝越しに退いたが、この時中関大隅・沖田淡路(落合)らは、裏木曽の付知・加子母・川上の戍兵三百人を率いてこれを挟み撃ちして、三木軍を敗走させた。(木曽古今沿革誌)
この軍には丸山久右衛門(中津川)、勝野平六左衛門(大井)等もみられ、滝越への進撃に際し、東濃の豪族たちは飛騨への道を経て、木曽越峠を越えたものと推測される。
ところで、三木氏の木曽進入の理由ははっきりしない。
三木氏は元飛騨国守護京極氏の被官で応永十八年(1411)竹原郷の代官に任ぜられたが、応仁のころ益田郡を横領するほどの勢力を有していた。
この木曽越峠の道筋は、近世に入って御岳参りの参道として発展する。
木曽義仲の妹菊姫の墓と伝承される五輪塔。
馬籠の宿場町から北寄りに登った南西向きの斜面で、馬籠、荒町を見下ろす位地にある。元法明寺跡。
近くの馬籠宿上入り口からは遠く美濃(中津川)が望める。平成の大合併により、馬籠は中津川市と越県合併し、遠い昔の平安、鎌倉時代と同じ美濃の国となった。
鳳慈尾(ほうじび)山大威徳寺
「本堂跡」
「頼朝の命にて文覚上人(或いは氷雅上人ともいう)が諸国を廻り、この地に来て寺院を建立した。その後兵乱で荒廃したが、修理も出来ない時に、天正十三年(1585)十一月晦日の大地震のため、本堂をはじめ諸建物が焼失し、その後再建の力もなく、僧侶も方々に散ってしまった」(益田郡史)
天正地震:城下町ともども一瞬にして崩落した土砂の地中深くに埋まったと言われる帰雲城(飛騨白川)で有名。
「五輪塔と宝篋印塔」
寺域北西方の西観音平一帯に点在していたものを、昭和40年代に本堂跡近くに移したもの。近年供養のため建てられた2基を除き室町以前のものとみられる。
加子母小郷にある地蔵尊と大杉
御本尊は高僧行基僧正が彫り上げたものといわれている。
建久五年(1194)源 頼朝がこの地より西方300m程にあった老朽著しい地蔵堂に立ち寄り、この大杉の下に地蔵堂を安置するよう告げたと伝えられている。
大杉の樹齢:千数百年、樹高:30.8m、目通り太さ:13.0m
天然記念物(大正十三年十二月九日指定)
城が根山と広恵寺堤
植苗木に進出した遠山景利らは、山頂に広恵寺城を築いた。のち天文一年(1532)遠山直兼は苗木高森山にこれを移した。
広恵寺跡の五輪塔と宝篋印塔
城が根山南麓の平地には正平五年(1350)開基の広恵寺があったが、江戸時代に至って、後継住職が絶えて自然廃寺となる。周囲には五輪塔、宝篋印塔、旧時をしのぶ石垣などが残っている。
城が根山山麓から見た植苗木の台地
この台地の中央当たりに片岡寺跡があり、周囲には中世時代の広恵寺城武士館の面影をとどめた堀や土塁の一部が残存している。
片岡寺は慶応三年(1651)創建、明治三年(1870)苗木藩の
廃仏毀釈で廃寺となる。
向田瀬と付知川
田瀬南宮神社前から対岸の向田瀬を眺める。村落の尽きるあたりから付知川は渓流を流れ下る。
並松原から眺める高山
手前の比較的平らなところが並松原で、ここから急角度で下ると付知川に出る。
正面の岩山中腹を水源に千原川が対岸に流れ込んでいる。このあたりは川幅が広く浅瀬である。50m程上流には旧千原橋がある。
古道は岩山の裾を左手に巻くように鉄砲池を経て、蛭川に向かっている。
初矢峠(720m)は飛騨路の内で、下呂市小川と乗政の間にある。峠から約50m乗政側に下った所に初矢峠の石畳がある。石畳の幅2m、延長80.4mでいつ出来たかは不明。鎌倉期には存在したとの説も。
御厩野から望む鳳慈尾山と舞台峠
写真正面の山の麓に白く「くの字」に見える道が大威徳寺跡への登り口。257号線を高架橋で越える。舞台峠は山麓右側を巻くように登った一段と低い所。
塞の神峠を下りた付知倉屋の町並み。町中から恵那山が望める。
付知稲荷橋から下流を望む。
下流に見える橋は田瀬橋で左岸は宮脇。付知川の渡河は両橋の中間点あたりか。
城が根山麓にある小石塚。
旅の安全を祈り小石を積んだといわれる。比較的平坦な雑木林の中にある。
南宮神社前から木曽川対岸の西山津戸方面を望む。
神社前方の切れ込んだ谷が餘碌谷。この谷を下ると木曽川に着く。このあたりを鎌倉渡しといった。
飛騨への道と木曽越峠との分岐点から塞の神峠方面を望む。
飛騨への道は左手山裾を通っていた。加子母川(白川)は右手の山裾を流れる。
飛騨への道と木曽越峠との分岐点から舞台峠方面を望む。
飛騨への道は右手山裾を北上していた。
木曽越峠山中への入り口。
傍らに道標として江戸期に安置された観音像を刻んだ石仏が静かに佇んでいる。